人間の風土なのか、日本の風土なのか、「悩みや愚痴などを言ってはいけない」という教育がされている。いわゆる「弱音を吐くな!」である。
多くの子供が弱音を吐くことは悪い事だと認識することがヤングケアラー自身の葛藤の基になっている気がしてならない。
もう一つの背景は、マイナス面を隠すという風潮である。これは良く見せようとすることの反面として現れてくる。悪い事は隠そうとする、大っぴらに悪い事を堂々とするのはアホである。
問題なのは悪い事の認識である。子供の成績が良くないことは悪い事なのか。子供がハキハキしないのは悪い事なのか。子供に障害があるのは悪い事なのか。
子供が不登校になるのは悪い事なのか。ニートになるのは悪い事なのか。
これらはひたすら隠さなければならないことなのか。多くの人がひたすら隠そうとする。不登校の面接で、『「うちの子は不登校なんですよ」と開けっぴろげに言えれば、それだけでも前進です』と話す。不登校だ
?と気にしなくなっている証拠だからだ。
当たり前を踏襲するという人間の習性が改善を阻む。弱音を吐くだけで楽になるということは、既に分かっていることであるが、広まらないどころか「弱音を吐くものではない」という認識が常態化しているのである。
人間は自分の弱さを隠したいらしい。そして、ひたすら自分を強く見せようとする。自分が凡人であると確信できると、それらの全てから解放される。
どうして強ぶるの? どうして隠すの? できない事、知らない事、学校へ行っていない事、家に閉じ籠っている事、これらの何処が悪いの? これらは恥ずかしい事でも何でもないのである。
悪事‥人を傷つける事、物を盗む事、物を壊す事以外に悪い事はないはずである。‥これが恥ずかしい事である。
分かっているようで分かっていないことに自慢話がある。自慢話は誰も聞きたくないということが分からないから、自慢話をする。
「うちの子は成績最優秀なんだ」なんて、聞いても全然嬉しくないが、「うるさい」と大人は絶対に言わない。それどころか「良いですね」と調子をくれる。
自慢話をするような人はアホだから、「良いですね」がお世辞だとは気づかない。世の中、意外とこういうアホがいるから、お世辞やゴマすりが有効になる。これは1つの生きる力でもある。
お世辞やゴマすりが横行するほど、本当のことを言うのはアホではないかと思うようになる。この瞬間からストレスが溜まっていく。ストレスは溜まらないようにするのではなく、如何にして発散するかが大事なのだか、発散の方法を教えるどころか、阻止しようとする。
その阻止が、弱音を吐いたり、上司の悪口を言ったりすることが悪であるという教育にある。この教育は無意図で行われるため人の心に浸透していく。
実際には、自分の言いたいことが言えるだけで発散になり、それだけで自分を支えることになるが、それが暗黙のうちに阻止されてしまうのである。
かくして、人の世は、開けっぴろげを好まず自身をさらけ出せない人間で満たされていく。
ヤングケアラーが存在すること自体が恥ずかしい事のはずであるが、それを無くそうと真剣には思わないのが人間の業というものなのかも知れない。不思議と周囲の大人はケアをしようとはしていないのである。
本来子供はケアをしてもらう立場である。大人がしないことを子供がするという事態こそが恥ずかしい事であり防がなければならないことである。
国や公共機関が手を差し伸べるのはコロナの感染防止ではない。ヤングケアラーの防止である。社会福祉というのは、正にここにあるべきものではないだろうか。
人間のやることは、元々ズレているのかも知れない。そのずれを修正しようとするのは悪あがきなのだろうか。防げもしないコロナ感染を毎日報道するが、防げるヤングケアラーを無くそうと毎日報道することはない。不思議である。
見えない地球上の覇者をシャットアウトしようとやっきになっている姿は滑稽でしかない。
外灯の下を一生懸命に探しているので「何で、そこを探しているのですか」「ここが、明るいからです」と無くした場所を探さない酔っ払いに似ている。できる事を1つずつきちんと処理していくことが大事なのだ。
子供の頃、「幸せの王子」とかいう童話を読んで、何でツバメだけが、自分の命を懸けてまで人に尽くさなければならないのかと怒りと疑問を感じたことを思い出した。
このような重大な問題をツバメだけに託してはいけないだろう。
多くの子供が弱音を吐くことは悪い事だと認識することがヤングケアラー自身の葛藤の基になっている気がしてならない。
もう一つの背景は、マイナス面を隠すという風潮である。これは良く見せようとすることの反面として現れてくる。悪い事は隠そうとする、大っぴらに悪い事を堂々とするのはアホである。
問題なのは悪い事の認識である。子供の成績が良くないことは悪い事なのか。子供がハキハキしないのは悪い事なのか。子供に障害があるのは悪い事なのか。
子供が不登校になるのは悪い事なのか。ニートになるのは悪い事なのか。
これらはひたすら隠さなければならないことなのか。多くの人がひたすら隠そうとする。不登校の面接で、『「うちの子は不登校なんですよ」と開けっぴろげに言えれば、それだけでも前進です』と話す。不登校だ
?と気にしなくなっている証拠だからだ。
当たり前を踏襲するという人間の習性が改善を阻む。弱音を吐くだけで楽になるということは、既に分かっていることであるが、広まらないどころか「弱音を吐くものではない」という認識が常態化しているのである。
人間は自分の弱さを隠したいらしい。そして、ひたすら自分を強く見せようとする。自分が凡人であると確信できると、それらの全てから解放される。
どうして強ぶるの? どうして隠すの? できない事、知らない事、学校へ行っていない事、家に閉じ籠っている事、これらの何処が悪いの? これらは恥ずかしい事でも何でもないのである。
悪事‥人を傷つける事、物を盗む事、物を壊す事以外に悪い事はないはずである。‥これが恥ずかしい事である。
分かっているようで分かっていないことに自慢話がある。自慢話は誰も聞きたくないということが分からないから、自慢話をする。
「うちの子は成績最優秀なんだ」なんて、聞いても全然嬉しくないが、「うるさい」と大人は絶対に言わない。それどころか「良いですね」と調子をくれる。
自慢話をするような人はアホだから、「良いですね」がお世辞だとは気づかない。世の中、意外とこういうアホがいるから、お世辞やゴマすりが有効になる。これは1つの生きる力でもある。
お世辞やゴマすりが横行するほど、本当のことを言うのはアホではないかと思うようになる。この瞬間からストレスが溜まっていく。ストレスは溜まらないようにするのではなく、如何にして発散するかが大事なのだか、発散の方法を教えるどころか、阻止しようとする。
その阻止が、弱音を吐いたり、上司の悪口を言ったりすることが悪であるという教育にある。この教育は無意図で行われるため人の心に浸透していく。
実際には、自分の言いたいことが言えるだけで発散になり、それだけで自分を支えることになるが、それが暗黙のうちに阻止されてしまうのである。
かくして、人の世は、開けっぴろげを好まず自身をさらけ出せない人間で満たされていく。
ヤングケアラーが存在すること自体が恥ずかしい事のはずであるが、それを無くそうと真剣には思わないのが人間の業というものなのかも知れない。不思議と周囲の大人はケアをしようとはしていないのである。
本来子供はケアをしてもらう立場である。大人がしないことを子供がするという事態こそが恥ずかしい事であり防がなければならないことである。
国や公共機関が手を差し伸べるのはコロナの感染防止ではない。ヤングケアラーの防止である。社会福祉というのは、正にここにあるべきものではないだろうか。
人間のやることは、元々ズレているのかも知れない。そのずれを修正しようとするのは悪あがきなのだろうか。防げもしないコロナ感染を毎日報道するが、防げるヤングケアラーを無くそうと毎日報道することはない。不思議である。
見えない地球上の覇者をシャットアウトしようとやっきになっている姿は滑稽でしかない。
外灯の下を一生懸命に探しているので「何で、そこを探しているのですか」「ここが、明るいからです」と無くした場所を探さない酔っ払いに似ている。できる事を1つずつきちんと処理していくことが大事なのだ。
子供の頃、「幸せの王子」とかいう童話を読んで、何でツバメだけが、自分の命を懸けてまで人に尽くさなければならないのかと怒りと疑問を感じたことを思い出した。
このような重大な問題をツバメだけに託してはいけないだろう。